公益社団法人 青少年育成支援 大和の心|青少年の健全な成長をサポート

REPORT活動報告

公益社団法人 青少年育成支援 大和の心

マークエステル世界展 -日本神話とヤマトタケルの愛-

2021.03.29

日本武尊(ヤマトタケル)

このヤマトタケルが、なぜ歌舞伎や演劇の題材として扱われるには理由があります。日本の建国をしていくのに、ヤマトタケルのあゆみの中に、とても大切なことが教えられています。

ヤマトタケルと弟橘比売の愛の物語は日本形成の礎になりました。

第十二代景行天皇より、大和朝廷に従わぬ豪族を平定する使命を受けて、西の熊襲征伐に向かいます。

その背景にはもう一つ理由がありました。父の景行天皇が息子、小碓尊(のちのヤマトタケル)の気性の荒さを恐れ、遠うざけられたために熊襲征伐を命じられました。15歳の皇子は父上の願いに応えられる期待に胸踊り出発をしました。途中、伊勢の倭比売命よりお守りとしての女性ものの着物をいただき旅立ちました。熊襲の地に到着した一行は厳重な館に侵入するために、叔母の倭比売命から借り受けた女性ものの着物を着て女装して侵入します。そこで熊襲兄弟を討ち滅ぼし、息の根を止めようとした時、川上梟師(タケル)が、東の方にこのような勇敢な方がおい出になられるとは知りませんでした、これからは私どもの名タケルを差し上げますので、これからはヤマトタケルとお名乗りくださいと言われ、これより「ヤマトタケル」と名乗られました。

大和に帰る途中に、とても美しい弟橘比売と出会い結婚の約束をされました。

父、景行天皇に熊襲征伐の戦勝報告をなさった時、慰労の言葉もなく、すぐに東国の平定を命じられます。その時に初めて、天皇の御心を知り気落として、旅立つ前に伊勢の倭比売命の下を尋ね、死をも願われているくらいの父の思いを倭比売命に打ち明けられました。傷つかれているヤマトタケルにお守りとして八岐大蛇から見つかった三種の神器一つ、天叢雲剣(のちの草薙剣)と命の危機に遭遇した時に、この巾着袋(火打石、火打金)をと渡されました。

ヤマトタケルは いざ出発する時に、現在、愛知県の知立市に着いたときに、自分は何のために東国に行くのかと、初代神武天皇の建国の精神、伊邪那岐、伊邪那美のシラス国、建国の志に立ち、「臣民が平和で安心して暮らす国づくりを天に知らせる国」を立てると戦勝祈願をされました。その故にその地の名前が知立と名付けられ、知立神社が創建されました。

大和言葉でシラス国を立てる、「民衆こそ大御宝(おおみたから)として慈しむ社会を実現するために、大和朝廷に従わね豪族を平定していくことを誓ったのです。

ヤマトタケルが相武国(さがみこく)に差し掛かったとき、国造(地元の豪族)が「草原の神が従わないので成敗してほしい」と草原の中の大沼に案内します。しかし、罠とは知らずいつの間にか火がつけられ炎に包まれます。

その時、ヤマトタケルは連れ添っていた弟橘比売命を「お前は大丈夫かと気遣った言葉をかけられました」。

倭比売命から授かった、天叢雲剣(のちの草薙剣)で草を薙ぎ払い、命の危機に遭遇した時に使いなさいと渡された巾着袋を使って、火打石、火打金で迎え火を焚いて、逆に国造達を焼きほろばしました。のちにその地を焼津と言います。

さらに東に進んで、走水の地に着いて船に乗り出港した時、ヤマトタケルの言挙げが海神の怒りをかい、急に海は荒れ狂い船が沈もうとした時に、同行していた弟橘比売が「私があなたの身代わりになって海に入り怒りを鎮めましょう」と言われ、菅、皮、絹を八重に敷してそこに飛び乗り、そして自生の歌を謳いながら入水していかれましいた。その歌が「さねし相武の小野に、燃ゆる火の、火中に立ちて、問ひし君はも」(さがみ野に火をかけられた時に燃え立つ火の中で、私の心配をしてくださった愛しい貴方よ)という意味の歌を詠まれました。

このことを通して、どんな緊急事態な状況であったとしても、神様に対する儀式を怠ってはならないことを教えています。我々は慌てている時には、神も何もないと思うかもしれませんが、そうではないと言うことを言っています。そういう時だからこそ、天の感謝の思いを大切にしなければならないということを弟橘比売命の行動を通して語られています。

この物語が有名なったのは、上皇皇后様がどのようにして陛下を御支えしてこられたかのお話な中に弟橘比売命の物語が語られました。天皇(すめらみこと)の大きなミッションを成し遂げられるヤマトタケル命を自らの命を持ってお守りなさった弟橘比売のお姿に、3月11日の東日本大地震合同慰霊祭の時、陛下は心臓のバイパス手術をなさったばかりで、主治医からもドクターストップがかかっておられました。それを押して参席されました。慰霊者の霊前でお言葉を読まれるとき、万が一何かあった時、陛下をお支え出来るのは私だけしかいないと思われたので、陛下が洋装なのに、皇后はお支えできるように和服で草履をおはきになり、お支え出来る体制を心がけておられたそうです。弟橘比売の献身的な生き方に、自分も一つの指針としていつも持っておりますと語られたそうです。このように日本国形成の指針がこの相模国でのヤマトタケルと弟橘比売の物語で現されたのです。

なぜ大和市と名前がつけられているのか、ヤマトタケルが国を立てようとした志を、この地に住む人たちが理解して、日本建国のために自分たちが何が出来るのかを考える物語として子供達に伝えていく使命があると思います。